紅白テキスト合戦

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人間でない者/歯科医きゃわ男

柳田国男の遠野物語は岩手県の山奥に伝承される話をまとめた書である。以前京極夏彦が再編していたので読んでみた。怪談話の様な物からメルヘンチックな話、道徳心を植え付けさせるような話までつらつらと簡潔に記されている。

中でも怪談話だが、今より科学の発達していない時代なので分からないの事の方が多い。結果恐怖体験が増える事になるのは必然と言えるだろう。一口に怪談話と言っても座敷童、天狗、河童、ヤマンバ、山男(鬼!)、山神などたくさんいる。

その中でも身震いする程寒気がしたいくつかの文がある。
上記した"人間でない者"と"人間"の境界を判断をしている"人の思考回路"を怖いと思ってしまった。5つ挙げよう。

・山奥の岩に座る髪をとく女は人間ではないので撃ち殺した。女が行こうとしても行けるような場所ではないし、行く意味がないからだ。

・夜の帰り道に険しい坂の近くの川端に自分の妻が立っていたがそれは化け物だったので刺し殺した。一人で来る理由がないし、女の足で険しい坂を上り降りして息を切らしていない訳がない。

・腹から産まれたのは河童だ。赤くて口が大きくとても醜いので道に捨てた。

・娘は実はヤマンバで娘の皮を着ていただけだったので殺した。嫁入り前に馬に乗せると鶏が「娘乗せずにヤマンバ乗せた」と繰り返し歌うからだ。また糠屋には鶏の言う通り娘の骨が沢山散らばっていた。

・村娘をさらった者は人間ではないかもしれない。村娘との間に出来た子供を自分に似ていないからという理由で殺したり食べたりするからだ。人間は自分の子供を食べたりしない。

…そうかなぁ!?
あまりに今の感覚と違いすぎる。最初の場合は幻覚の可能性はあるが、他は人間という可能性を捨てきれない。しかし先祖の思考回路にケチを付けても仕方ない。何故そんな違いが生まれるのか愚考する。

・人間だと思いたくないから
同じ人間が酷いことをするなんて思いたくない。誰かがやったとしても立証は難しいし、化け物のせいにした方が平和。

・灯りが少なくてよく見えないから
眼鏡もないし見間違え安定。

・異常行動や病に名前が付いていないから
幻覚を妖精、性依存症をサキュバス、多重人格を狐の憑依としていたように、概念だけの物のせいにする事で一応の理論を付けていた。名前が付いていないと全容の把握自体が難しくなる。

・人間以外の生物が周りにたくさんいたから
今よりも周りに動物が多いため生物に幅があると考えていた。化け物を生物の中に分類し、狼や熊と同じように畏怖していた。

・そちらの方が都合の良い人間がいたから
死人に口無し。殺したってこいつは娘の皮を着たヤマンバだったと言い張れば周りは同情はすれど疑いはしない。

まだたくさんあるだろうが残念ながら思いつかない。この中でも科学力が無いので調査が難しいという点、暗くてよく見えないという点が大きいだろう。

遠野物語に編纂されている摩訶不思議な話は全て明治四十三年に遠野郷で事実として語られていた物だ。怪談話などと言ったが遠野の者にとってはそれは生々しい記録である。
そして法螺として扱われるのとは全く意味が違う。彼らは登場人物の思考回路に何の違和感も感じてはいなかったという事になるのだ。話は法螺かもしれない、しかし真実だと思っていた人達の存在自体は否定できる物ではない。

気になるのは今後、人間とそうでない者の境界は変わるのかという事だ。1910年に刊行されてから百年。百年後には価値観が変わっている可能性があるという事だ。
読めば遠野は確かに周りを山で囲まれている僻地でありながら交通の便のよい栄えた場所だった。そういう立地だからこそ″新鮮な古い話″が溢れているという見解もある。辺鄙なド田舎で語られているのとは訳が違うのだ。

人間は現在ホモサピと定義されている。その枠の中でどんな行動を起こそうと、どんな場所にいようと、自分の子供を喰おうと、それは人間だ。
将来その枠は広がっていくのか、狭くなっていくのか。もしかしたら「あんなの人間だと思ってたの?」と言われてるかもしれない。無論心配なんてしなくてもその定義は秩序ある社会が決めていってくれるだろう。だが幼い頃から植え付けられた感覚を社会的に否定される日が来ることを思うと、昔を懐かしみ今に憤慨する頑固な老害を笑うことはできない。

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